父の転職と学生運動時代
私の父は、祖父が警察官だったこともあり、大学を卒業して警察官になりました。
しかしもともと子供が好きな一面もあって、警察官として働きながら夜間学校に通い、
教員免許を取得することを決心します。
そして、転職をして小学校の先生として働くようになりました。
当時は1960~70年頃で、ちょうど学生運動が盛んな時期でした。
父は「昼は警察官の立場として戦い、夜は学生の立場として戦い、心が苦しかった」と言っていました。
「裂かれたるシャツ着て調書に学生は吾と同じ十九と書けり」
(父の短歌より)

教師としての夢と現実
やがて父は教員免許を取り、晴れて小学校教師に転職します。
特別に座右の銘といえるものはなくとも、
「子供たちを活かしたい」
「団結して楽しいクラスを作りたい」
といつも願っていました。
しかし、現実は厳しく、理想通りにいかないことが多かったようです。
「やればやるほど空回りしてしまった」
と振り返る父は、なんとか良いクラスを作りたくて、
教員同士の「授業を研究する会」に参加したり、教育についての本を読み漁ったり、
その道の著名な方にも会ったりしたそうです。
それでも理想のクラスにするのは難しかったそうです。
結局、状況は好転するどころかむしろ悪くなり、最終的には学級崩壊にまで至るようになりました。
父自身も精神的に追い詰められ、登校拒否をするようになってしまいました。

父の休職とその時の思い出
父が54歳の時、1年間ほど休職していた時でした。
朝、カーテンから差し込む光を見るだけで「うわぁ…」と苦しそうに言って、
布団の中にくるまり動かなくなってしまった姿を、今でも鮮明に覚えています。
私は父にどう声をかけていいのか分からず、手紙を書いたことがありました。
「病気になるくらいなら仕事を辞めてもいいよ。みんなで助け合っていこう。
パパが元気ならお金も何もいらないよ」
手紙を渡してしばらくして、幸いにも父は復職することができ、最終的には定年まで教師として働き続けました。
父は教師として、理想のクラスを作るという夢はかなえられなかったかもしれません。
しかし退職後に信仰を持つようになり、教会の人たちと交流を深める中で、教師時代に学んだことや経験が生かされることが多くあったと思います。
また、人を教え育てることに苦労したからこそ、その経験が、聖書の教えやチョンミョンソク先生の生き方をより深く感じるきっかけになったのではないかと思います。
「そればかりでなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」
(ローマ人への手紙5章3-4節)
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